根拠なく思い込めるのが強み

絶対できるようになる。
絶対大丈夫。

絶対わかる。


私の、目の前の人に対する思い込み。

根拠はない。

でも、自分の前に座っている人は、
絶対に、わかるようになるのだ。

これがベースにあるので、
わたしは、理解をもたらすことができる。


すーがくができない。

えーごがわからない。

これがわからない。
何がわからないかもわからない。


いろんな問題を持ち込まれる。
でも、一つ一つ解きほぐしていって、
わからない単語、誤解している単語を潰していく。

それで、


なんだそういうことだったのか。

わかった!


となるまで持っていく。

わたしは、これができる。
でも、他の人は、自分ほどうまくできない場合があるのが不思議だった。

目の前の人物に対して、相手のために100%の思い込みができるかどうか?

それが違いだったようだ。








東京ゲートブリッジ






葛西臨海公園から、お台場に向かう水上バスにのって、
今年2月に開通した東京ゲートブリッジ見てきた。

水上バスは、後部の外に開放されたスペースで波を間近に見て、
ときどきかかる水しぶきに子どもたちはおおはしゃぎ。








英語だろうが日本語だろうが、 必要なこと

英語世界では、私は小学生レベル以下の読み書き能力。

周りに、日常的に英語を話す人がいたわけでもない。

英語を書く、話すことについては必要性がなかった。

だから、辞書を引き引き読むことはできるけど、
書くとか話すとかっていう訓練をしていない。

しかし、何の因果か、翻訳をすることになって、
英語ネイティブの方に手助けしてもらう機会をもらった。

その女性、日本語を話すわけではない。だから会話は英語。

翻訳する文献で、難しくなって止まっていた。
それで、声をかけていただいた。

気にかけてくれたのは、ありがたいんだけど、
英語で解説されてはたしてわかるようになるものか?

という疑問があったが、
必要なかった。


わかるようにわかるまで説明してくれた。
英語で。

とてもよくわかった。

わたしがいつも生徒さんに対してやっていたこと、
昨日は、私が生徒の立場になって逆にやってもらった。

まず必要なのは、相手に理解をもたらそうという意図。
それは、英語だろうが日本語だろうが、
変わらない。

改めて、気づかせてもらった。









長い間ひどい状態だと、自分がひどい状態にいることがわからない

ここ数日、だいぶ冷えるようになってきたのもあってか、
エンジンかけてもすぐ止まるようになってしまった。

それで先週末、行きつけのバイク屋さんに修理に出した。

修理が終わったと連絡をもらい、取りに行く。

夜、9時過ぎだというのに、店が開いているのがありがたい。

なおったスクーターに乗ってみると、あれ?!すんごい快適。

最近ずっとキックしてエンジンスタートさせてたが、
その必要はなくボタンを押せば一発でエンジンがかかる。

アクセル回すとスムーズに回転が上がっていく。

調子が良くなって、はじめて、あちこち調子が悪かったことに気がついた。

調子が悪いのが普通の状態になってしまっていて、
それが本調子でないということがわからなかった。

ずっとひどい状態にいると、
その状態があたりまえになってしまう。

毎度毎度、何度もキックしてエンジンをかけていたが、
それについてなんとも思わず、それが当たり前になっていた。

それはどこかがおかしかったのだ。

本当に動かなくなってしまって、はじめて、修理に出した。

本来はどういう状態で、どのように機能するものなのか、
正常な状態はどういう状態なのか?

わかっていれば、もっと早く修理に出していただろう。

でもまあ、今回のことで違いがよくわかったので、
今度調子が悪くなったら気がつくはずだ。


勉強でも同じことが言える。

苦痛を感じながら、
いやいや勉強を何年も続けていると、
苦痛なのが勉強だと
勉強とはそういうものなのだと考えてしまうかもしれない。

わたしも学生の頃はそう考えていた。

勉強は、この眠気やら苦痛に耐えて一生懸命やる必要があるのだ。
とがんばろうとするが、結局眠気には勝てない。

でも本当は苦痛とか眠気に耐える必要はない。
苦痛を感じている時点で、何かがおかしいのだ。

必要なのは、耐えることではなく、
その原因を見つけ取り除くこと。

スムーズに勉強を進めて、どんどん加速していく気持ちよさを
ぜひぜひ多くの人に味わって欲しい。





親子で楽しむ学び方 LEARNING HOW TO LEARN


基礎からわかる勉強の技術


いいとこ行っても、勉強嫌いになったら元も子もない

泣きながら、
ほっぺたつねりながら
目薬差しながら、
死にそうになりながら
勉強を続けた。

勉強といっても、
ひたすら単語やら、
解法やらを暗記する作業。

勉強が苦痛で仕方がない。

学校を卒業して社会人になって、
もう勉強しなくていい。

助かった~

と解放感を味わった
という人。

かわいそすぎる。

勉強して得た知識やらなにやらより、
勉強ができる
学んでいくことができる
ってこと自体の方が、
よっぽど必要なこと、大事なこと。

長い間、無理矢理な勉強をして、結局、
勉強できない身体になってしまった。

だとしたら、これからどうやって生きていくっていうんだ。


なにかをできるようにするために、
新しいやり方を学んで、
さらにもっと何かができるようする。
それが勉強。

重要なのは、試験に受かって、
合格したり、資格を取ったりする事ではなく、
勉強したことを実際にできるのかどうか?
仕事に生活に、役立たせることができるかどうか?

だ。

ただ、実際問題これを中学生、高校生に、
伝えるのは難しかったりする。

彼らが今、必要としていることは、
テストの結果であり、
学校の成績。

それだから、苦痛をこらえて、
勉強を続けてしまうなんてことが、
起こってしまう。

で、学校での勉強は、
生活や仕事で役に立たせるという目的で
カリキュラムが作られていない。

勉強することはたくさんあるが、
それをなににどう使うのか?

なんてことは、教えられない。

しかしまあ、現時点において、
カリキュラムのことをあれこれ言っても仕方がない。

せめて勉強ってどうやって進めると
苦痛を感じることなく、
スムーズにだんだんスピードをあげていけるように
やっていけるのか?

を伝えて、練習させて実践を繰り返させる。

そうした勉強のやり方が身に付いたら、
学校をでてからも、
勉強を続けて、新しいやり方を身につけ、
実践し、いろいろあるだろうけど、
自分の道を切り開いていくことができる。




親子で楽しむ学び方 LEARNING HOW TO LEARN


基礎からわかる勉強の技術


なになにが嫌いだなんて、別に理由にならん

仕事の上で、好きだからとかいうのは、
そんなに重要なことじゃねえよ。

でも、嫌いってのも、もっと理由にならんぞ。
あの人が、とか、この仕事、この科目、などなど
嫌いだからやらないって、
それはあくまで自分の都合だからな。

自分がやりたいことと、
人が求めていることが一致していたら、
それは幸せかもしれないが、
順序から行って、
自分がやりたいことやるには、
まずは、人が求めているものを提供する方が先だ。

嫌いだからとかいう、
自分の都合で、そうしないんだったら、
いつまでたっても、嫌いといって
それを、その人を、その科目を、その仕事を
などなどを
避け続ける人生。

せまいせまい領域からでることも、
広げることもなく、
同じことを繰り返し続けることになる。

そんな人生をぶちこわすために、
これを見るべし。








いいから、大丈夫だから、さっさとバイトでもなんでもしろ

  自分はどうすべきか?

  勉強に集中した方がいいのか?
  なんか働きながらでも、やった方がいいのか?

浪人生からよく聞かれる質問。

とにかく、バイトしろ。

別に浪人生に限らず、高校生だろうと、
もしできる環境にあるのであれば、
働くことをすすめる。

他の人達と協力してなにかを生産する、
仕事をするっていう経験。
生きていく上で必要なこと。

学校では教わらない。
勉強ばかりしていて、
勉強できるようになったとしても、
それがなかったら、社会の中で動けない。

今の教育の仕組みの中で、
勉強できて優秀だということになったとしても、
それは、その仕組みの中でだけの話で、
そもそも、目的やら仕組みが全く違う実際の社会の中でも、優秀かどうかは、また別の話。









英語を英語として学ぶことで、自分が使い続けてしみついている日本語がどうなっているのかがわかる

そこには違う世界がある。

日本語世界にどっぷりはまっていると、
はまっていることに気がつけない。

で、いくら英語を勉強していても、一生懸命訳して日本語に置き換えて、という作業を延々と続けている限り、
日本語世界から抜け出すことはできない。

なにがおもしろいかって、しっかりと身に付いてしまって、毎日毎日話して、聞いて、読んで書いている自分の言葉、日本語。
それが何でどんなものなのか?
英語と比べると、ほんの短い文章で、ものすごい量の意味をこめることができるとか、
逆に意味が多すぎて、英語ならYouひとつですむことも、
日本語だったら、省略したり、おまえ、あなた、貴様やらさらには、関西系だったら自分・・・といってyouをさしてしまう。

日本語は時と場合によって、使い分けが必要。
なんてややこしいことをしているんだ。
何のためにそんなことをしているのだ?

と気がついて考えることができる。

英語の側から日本語を見てみると、違いが浮かび上がってくる。








計算することが数学なのではない

パスがうまくなるようにと、ひたすらパス練習だけさせて、サッカーというゲームの存在を知らなかったら、どうなるでしょうか?

ボールを蹴って相手に渡す。
それだけで、まあ少しは楽しめるかもしれませんが、何のためにこれやってるんだ?
と疑問が浮かんでくるのではないでしょうか?

こんなことやっていても、役にたたない。
人生で、生活で仕事で、ボールを蹴ってあいてに渡す必要性なんかない。

こんなこといくらうまくなっても、役に立たない。

などなど。

まず、サッカーというゲームがあって、チームで協力して点をとって、点をとられるのを防いで、試合で勝ったり負けたりする。

それが面白いんですよね。

その面白さがあるから、もっと上手にプレーできるようになりたいと思って、パス練習といった地道な練習ができるようになるわけです。

中学や高校での数学、
生活や仕事で二次方程式使いませんよ、
こんな計算練習して何の役に立つんですかって、
そりゃ疑問に思うのはもっともです。

そもそも、それが何のためのものなのか、教えられたことがありません。

わたしも、数学を教えたりするくせして、
因数分解ができたからなんなんだって、
よくわかっていませんでした。

数学では、いろんな計算をします。
で、これがなんにつながるのか?
こんなこと勉強していったい何の役に立つのか?
というお決まりの疑問を持ちます。

私は、数学ができないわけではないし、
今だったら教えることもできます。
できるようにうまく導いていくこともできます。
実際、テストで7点などという、適当にやっても、
その点数はないだろという点をとっていた生徒さんが、
80点とるようになったりしています。

でもだからなんなのだ。
この「数学」ってのは、実際問題生活でも仕事でも使わないし、
何の役に立つんだ?

という疑問をずっと持ち続けていました。

そこで、辞書で「数学」の定義を調べてみました。

量と形を扱う学問
とあります。

計算については、一言も書いてありません。

あれ、そうだったの?

数学って、計算することじゃなかったのかよ?

おいおい、最初っからそう教えてくれよ。

という気分。

学校での数学の行き着く先の一つが、微積分。
これで、変化する量を扱うことができるようになります。

これに到達するために、そこまでやってきた計算やらなにやらが必要でした。

微積分に到達させるために、それまでの課程が用意されていたようです。

数学におけるサッカーの試合に当たる部分が、
もう少しで見えそう。

もしそれが見えたら、人にそれを伝えることで、
その勉強がもっと意味のあるものにできるような予感。








議論に勝ってもしょうがない

おまえは間違っていると言われる。
議論になって負かされる。

お母さんとか、
学校でクラスメイトから受ける仕打ち。

うざったいんすよ。

とある高校生がぐちをこぼしていました。

負かされたら気分が悪いのは、
よくわかります。

でも、議論に勝ってしまったら、
ちょっと、うれしいかもしれませんが、
ちょっと、優越感にひたれるのかもしれませんが、
それがなんになるんでしょう。

そもそもなにがしたいのか?

社会にでて、仕事をしてみないと
学生のままではわからないことがあります。

生きていくために、
給料とか、なにかの報酬を受け取るために、
なにかを生産し提供する必要があります。

誰かが必要としていること、
それを提供することで、
自分に必要なものが交換として手に入ります。

その生産物を提供する誰かは、
お客さんかもしれないし、
上司や同僚かもしれません。

新聞のセールスマン、社会人がなぜ新聞を読む必要があるのか、説得しようとします。
おっしゃることは正しいし、まったくその通り。

でも、説得されたら、負けたような気分になります。
それじゃあ、お金を払う気にはなれません。
少なくとも私は。

議論に勝つことは、あんまし、社会にでて、
仕事をする上で役にたちません。

それよりも、その議論をふっかけてくる誰かさんを、
いい気分にさせて、何かを買ってもらうには、
どうしたらいいか?
を考えてやってみるのが、
これから生きていく上でものすごく役に立つよーん。

それには、議論に勝ってしまったらアウトだな。